「奇跡」というのは何でしょう?
二十六聖人記念館のスタッフと「日本での福音宣教をうまくするために何をすればいいか」と分かち合ってみたことがあります。スタッフが言いました。「Savio神父様、イエス様は公生活中にいろいろな奇跡を行いましたよね。それで大勢の群衆がそれら奇跡を見てイエス様を信じ、従ったんですよね。ではなぜ現代にはイエス様のように奇跡を行う聖職者や宣教師がいませんか?もし人たちの目の前で病者を治したり、湖の上を歩いたり、パンを増やして五千人を食べさせたりすれば人たちがキリスト信者になるでしょう。いかがですか?Savio神父様が可能なければ…」と。
お互いに笑ってしまいました。私はイエズ様のように人の目の前で病気を治したり、パンを増やしたりするのができないからです。
まず言いたいことは、確か、イエス様が中風病者や悪霊にとらわれた人たち、体の不自由な人、目が見えない人たちなどを癒してくださいました。ですが奇跡を見、癒された人たちがみんなイエス様をしたがったか、信じたかは別の話です。ご存じのように、十人の重い皮膚病を患っていた人たちが病気が治っても一人しか神を讃美しながらイエス様の方に戻ったのです。九割はどちらに行ってしまったんでしょうか?つまり、奇跡と信仰はイコル、同じではないということです。
また、「奇跡」ということが「何か」ということです。時々、説教を聞いた信者さんが「今までの謎が解けたと、悩んでいたことにすっきりになったと、長年どうしても許されなかった相手をゆるすことができたと」、いろいろな形で奇跡を経験して神様から救われたと言いました。それらは奇跡ではないのですか?ある意味で奇跡じゃないんですか?
今日の第二朗読を見ると使徒パウロは神様の「霊」によって私たち皆んが別の奇蹟を行う力を持っていると言いました。「皆さん、賜物にはいろいろあります。ある人には”霊”によって知恵の言葉、ある人には知識の言葉、ある人には信仰、病気を癒す力、奇跡を行う力、予言する力、霊を見分ける力、しゅじゅの異言を語る力、異言を解釈する力が与えられています」と。
使徒パウロが言われたように奇跡というのはただ一つだけではないということです。今日のヨハネ福音で言われたようにイエス様が母マリア様の頼みに従って水をぶどう酒に変化されるような奇跡もあるし、私たちみんなが神様からいただいた何らかの力の奇跡もあります。では皆さんたちはどんな奇跡を行う力をいただいたんでしょう?私にとっては一番大事な奇跡の力は「目に見えない神様を信じる私たち、キリスト者たちの神様への信仰」ではないかなと思います。もう一度使徒パウロの言葉を唱えてみます。「皆さん、賜物にはいろいろありますが、ある人にはその同じ”霊”によって信じる力が与えられています」。私たちに与えられた信仰の力を他の奇跡より大事にすればいかがですか?