「救いをいただきましたか?」
「救いをいただきましたか?」
韓国では街を歩くとよく二人組のプロテスタントの伝道者たちと出会います。彼らは人々にこう尋ねます。「すみませんが、お聞きしたいのですが、あなたは救いをいただきましたか?」
プロテスタントの伝道者たちはものすごく積極的で、やさしく、またその熱心さがこちらに本当によく伝わって来ます。私がカトリックの神父だと答えても、私にプロテスタントの教えを述べ伝えるほど心が熱いのです。それがプロテスタントの信者が韓国でどんどん増えつづける理由の一つではないかと思います。
プロテスタントの伝道者は確信をもって「はい、私は救いをいただきました」と話していたのですが、私は司祭なのに、いきなりそれを聞かれると、すぐには「はい」と答えることができませんでした。その理由を考えてみると、「私は救いをもらいました」と自分の口で出してみることが、すこし恥ずかしく感じたからなのです。
もし私が皆さんに「救いをいただきましたか?」と尋ねると皆さんは「はい、私は神の救いをいただきました。」とはっきり答えるでしょうか。
カトリックの信者たちは少し遠慮しているのではないかと思います。
ほかの理由としては、「救い」は私たちが決めるものではない、という考えがあるかもしれません。神様には熱心に従うべきですが、救いというのは、私たち自身の熱心さによるものではなく、逆に神様次第なのだと。
私たちがするべきことをすべて強く信じて行うこと。私たちが、まだわからない神様の神秘に対しては「はい、私は信じます。ですが私は弱いものであり、世の中のものをあまりにもわからないから、私に信じる力を与え、正しい知恵をお願いします」と求めるべきと考えるのです。
今日私たちが祝っているキリストの聖体の祭日も、教会が2000年以上イエス様のことを記念してごミサを通して続けて記憶しております。教会が、私たちがイエス様を忘れてしまうとイエス様はこの世から消えてしまうのです。毎日ご聖体をいただきながら、私たちがイエス様のすべてのできことを記憶しながら、神様の神秘を未来に伝え、永遠に生かすこと。それが私たちが神様を信じる理由ではないかと思います。それができるように今日もご聖体を心を尽くしていただきましょう。