「期待」と「希望」の違い
だれかに期待をしたのにそれがかなわなくなると落胆してしまうのです。特に自分の人生をかけて勝負をしたのにその人が自分の考え通りにならない時は自分の人生全体が拒節されたと思ってもっとひどく反発するのです。イエス様に「ユダヤ人の王」になってほしかったイスカリオテのユダはイエス様が御受難の道を選ばれるとすごくがっかりしてイエス様を「銀貨三十枚」で裏切ってしまいました。「期待」というのはなにかが自分の利益と反するものなら顔を変えてしまうものです。「希望」とは全く違うものです。
「希望」は自分の期待がかなわなくなっても「期待」を持つ事をあきらめないものです。まるで親が自分の子供がとんでもないことを行ってもあきらめずに希望をもっていつまでも待つのと同じです。イエス様の弟子たちは皆がっかりして逃げて行ってしまいましたが、マグダラのマリアをはじめ、イエス様に希望を持って従った婦人たちは彼の御受難の道でも、十字架の下でも、さらに空になったお墓でもイエス様と出会うことを決してあきらめなかったのです。結局、婦人たちはイエス様の最初の証人の地位を得てしまうのです。
しかし、「希望」を抱くことは絶対やさしいことではないのです。どうしようもない子供に「希望」をもって待つことはものすごく「忍耐」が必要です。私たちの力では決して無理です。神様に頼らないと。もしかすると一週間、二週間なら我慢できるかも、ですが一年、二年、あるいは10年になったらつらくてつらくて我慢できないのです。「期待」と「希望」との違いがここにあります。「希望」は何かがあってもあきらめず、自分の子供のために祈りながら待つように力をあたえるものです。
ウクライナとロシアの戦争や世界中のテロなどをみると神様は存在しないような気がします。まるで婦人たちが空いているお墓をみて絶望感に包まれたように。ですがはっきり婦人たちはイエス様と出会いました。「恐れながらも」大いに喜びました。その理由はがっかりしても「希望」を失わなかったからです。イエス様の御復活を祝うわたしたちは神様への希望、イエス様への希望、また世の中のすべての人々への希望を失わなければ、いつか神の国、私たちが望んでいる世界の平和、自ら願うことなどをいただくことができると思います。それができるように弱い私たちを信仰を強めてくださるようにこの夜、復活なさったイエス様にお願いいたしましょう。