나는 너희를 도무지 알지 못한다.
あなたたちのことは全然知らない
1960年、ある裁判がイスラエルでありました。第二次世界大戦下のヒトラー政権で二番目の実力者、アイヒマンがアルゼンチンで身分を隠して住んでいたときに捕まって裁判にかけられました。
裁判に行った人々は皆アイヒマンが「鬼」のようなひどい人間だと思っていました。しかし裁判所の中で立っている彼の姿はごく普通の平凡な人物にしか見えませんでした。普通のお父さんと同じように子供と遊び、妻に対してはまじめな夫の役割を果たし、会社では重役として誠実に仕事をしていました。どのようにすればホロコーストの企画者として六百万人を殺した人間がそのような平凡な顔や生活ができるのでしょうか。裁判所の傍聴客たちは皆驚きました。彼らの考えではアイヒマンの姿は普通の人とは全然違わなければならなかったのです。
想像を絶するホロコーストを犯したアイヒマンは自身が何をしているのかを全く知らなかったのです。アイヒマンは最後まで自分のことについて無罪を主張しました。「私はただ命令に従っただけでした。神の前では有罪ですが、人間の裁判所では無罪だと思う。」とまるで独立闘士のように死に臨みました。死ぬまでアイヒマンは自身がどのようなことを行ったのかを全然考えませんでした。
アイヒマンの罪は何でしょうか。ユダヤ人の思想家のハンナ・アーレントはアイヒマンの罪について「疑いを抱かない罪、考えようではない罪だ」と言いました。さらに「すべて悪行は善良でほしいとか悪業をしようとかなど絶対決心したことがない人々が犯しているのです。これは悲しい現実だと思う。」と嘆きます。「悪の平凡性」ということはそれゆえに生まれたのです。至極平凡なアイヒマンの中にハンナ・アーレントは「悪の平凡性」を見つけました。思わないで生きている平凡な生涯の中にはひどい悪が存在できること、思わないで単純に与えられた生涯を送ることはひどい悪業が犯せると言っています。
それにアイヒマンを起訴した検事は彼の罪は「疑わない罪、思わない罪、行動しない罪だ」と言いました。反面ハンナ・アーレントは「他人の苦しみに対して無関心の罪、被害者を他人のように思った罪、隣人は我々の人で、他人ではない」と言いました。
今日の福音でイエス・キリストは次のように言っています。「私に向かって、≪主よ、主よ≫と言う者が皆、天の国に入るわけではない。私の天の父の御心を行う者だけが入るのである。」平凡な日常を生きていながら父の御心とは何の意味なのかを問わないでいるとアイヒマンと同様になるかも知れません。その結果、人生最後の日に神様がイエス・キリストに言われた通り「あなたたちのことは全然知らない。わたしから離れされ」という言葉を聞くかも知れません。そのようになるでしょう。