어느 가톨릭 수도자의 좌충우돌 세상사는 이야기
召出しの話 본문
召出しの話(ニックネームについて)
シスター品川さんから私の召出しのことについてすこし分かち合ってくださいと頼まれたのですが、けっこう長年生きて来ましたので短く話すのはなかなか難しいのです。それで修練の時につけられたいくつかのニックネームについて紹介しながらお話しさせていただきます。
イエズス会に入会する前に1年間くらい志願期をやります。その時、月に2回集まった私の同期たちから「星の王子さま」と呼ばれました。信じられないかもしれませんが、今確認できないので信じても信じられなくても、仕方がないです。今年ある学生が私の顔を見て28歳だと言って私はびっくりしました。でも、ちょっと嬉しかったのです。皆さんは、私がどのぐらいの年齢だと思いますか?参考として言えば、今年受階者10名の平均年齢が42才でした。信じられるのでしょうかなぁ。
皆さんもよくご存じだと思いますが、修練院に入ってから2週間も経たないうちに私の新婚生活に危機が訪れました。志願期の時、まるで天使のように見えた同期たちなのに、その天使たちと一生生活するならこれほど幸せな人生がないと思って入会したのに、そんな天使たちがだんだん怠け者や情けないものにしか見えなくなったのです。神のため、隣人を支えるため、人々の魂を救うため、すべてのことを捨てて入会したのに、なぜ自分のことを何一つ捨ててないのか、なにも変わらず修道者ぶるのかが気に入らなかったのです。その結果、私は口うるさい人になってしまい、「かりそめにも修練者ならこうやらなきゃ」、「かりそめにも司祭になりたい人は我慢しなきゃ」、「かりそめにもこうであれそうであれ」と言い始めました。それがいつの間にか「かりそめにも修練者」と呼ばれるようになったのです。
少し話しが変わるのですが、私は祖母から育てられました。両親が急いで天国に行ってしまったので、祖母から一から十まですべて教えてもらいました。その教えの中で今もおぼえているのが「あなたの飯はあなたの手で食うべきだ」ということです。学校にもまだ入ってなかった自分の孫に対してこう教えたら皆さんはどう思いますか?私の祖母は皆さんの予想通り、性格は完璧主義で粘り強い人でした。そのような人の孫だから私も祖母とそっくりでした。例えば、私は入会前、銀行マンと財団のファンドマネジャーとして8年ぐらい仕事をしました。長年お金のことを扱いました。それは祖母の教え通りに「世の中は戦場で自分の飯は自分で求めなければならない」と思って、一所懸命に誠実で、仕事には完璧さを求め、自分のことに対してけっこう厳しかったのです。だからあいまいな修道生活は許されなかったのです。
そのような私の性格を分かっていたイエズス会の管区長は入会に当たり私にこう言われました。「金さん、修練院でゆっくり休んでください。何もしなくていいから神様の胸で安らかに泊まってくださいね」と。やりすぎた私の熱意が私自身をくずすことになると思ったのかもしれません。入会前まで全力を尽くして自分の力だけ信じて過ごしたことがかわいそうに見えたのかもしれません。だから力を抜いてすこし楽にするのが必要だったのかもしれません。でも、30年間、生き抜くために身につけた生き方を一気に変えることはできないものです。いくら「ゆっくりやすんでください」と言われてもなりぶりかまわずしないと成長することはできないものです。ある程度まで成長の痛みがなければ人間はそのまま止まってしまうでしょう。私にはそれが必要だと思います。そんな私だから私のまわりは静かな時があまりなかったと思います。
最初は、私のこんな無駄口が同期たちに通じているように見えました。私の言うことがなんとなく正しく聞こえたかもしれません。それに反論できないぐらい私は規則などをきちんとまもっていたからかもしれません。ですが、時間が経つにつれ互いにぶつかり始めてどんどんけんかばかりするようになってしまいました。天使が悪魔のように見え始めました。それはなんとなくわかる気がします。私の代は8人、一年先輩が7人でした。ほとんど24時間一緒に生活するから避ける場所もなく、ほんとうにけんかばかりで今度はこの人と、次は他の人と、つぎつぎと相手を変えてけんかを続けました。そのけんかのうちにいつの間にか副修練長ともけんかしてしまいました。それでちょうど私の3番目のニックネームができちゃったのです。まさに「闘鶏チキンファイト」と呼ばれることになりました。相手をチェンジしながらようしゃなくつめをさらけ出すと誰も私の横には来ないわけです。来るとつい私のつめで引っかかれるからです。ほんとうにきりなくけんかばかりした修練でした。
2年間の修練を終えてやっと誓願を立てました。私と一緒に修練を受けた同期たちが私に対してこう言いました。「あなたのお陰で本当に神の存在に気づいた。絶対変わらないあなただと思ったが、そんなあなたまで神は変えてしまったね。それは私にとって不思議な業だと思う。あなたの変わった姿を見て私は神の存在を否定することができなくなった」と。本意ではなく私が彼らの信仰の証人になったのでしょう。ちょうどその時、私の4番目のニックネームができました。まさに「ボロボロ鉄人28号」です。これはある有名な漫画に出たロボットです。意味通りにロボットは鉄で作られた血も涙もない冷たいものでしょう。はりで刺されても血は出ないし、人間味なんかない人形のような私だとみんなが考えていたのですが、「ボロボロ」という形容詞がつけられたように、その鉄人が、ねじもゆるみ、つなぎもあまくなり、全体的にボロボロになって、ちょっと人間味がでるようになったというからかう話です。
私にこのようなニックネームをつけてくれた同期たちに感謝しています。私のことを我慢してくれて私が自分のことを全部出すようにけんかの相手になってくれたし、相手が認めてくれなく避ける方法もありうるのですが、彼らは私のことを絶対あきらめず、真剣に向き合ってくれました。彼らのお陰で私も一人前になることができたのかもしれません。まだまだですが、入会の同期たちを思い起こすとこれからの道も彼らと共になら、どこでも行くことができると思います。今は各地にばらばらになったのですが、世界中どこにいても心がつながっているからいつでも思い出すことができます。まさに昨日別れたように今日会っても親しみを感じることができます。
私の同期のことばかり言いましたが、結局私たちをつなげてくださる方は神様です。神様の中にとどまるから私たちが生きているのです。神の道に足を置いて行くからこの道を毎日ゆらゆらしても行くのです。すべてのことが分かって道を歩んでいる人はあまりいないと思います。私も毎日ゆらゆらして行きます。ですが、ちゃんと信じているのは私一人ではないということです。神様や同期たちやイエズス会の同僚たち、家族、友達、教会の信者さん、これから出会う大勢の人々がいます。この道は私のみの道ではないと言う悟りです。ゆらゆらしてもすべてのことを信じていくべき道だと思います。皆さんもそう思っていますか?
最後に言いたいことがあります。神様の恵みの中でこの道を歩めるようになった時、幾つかの自慢することができました。一つは祈りです。何かが起こると必ず神の前に座るようになりました。悲しい時も、嬉しい時も、つらい時も、神様のもとに留まって祈っています。ずっとイエス様の背中を見てここまで来たからそうなったのです。それが私にとって一番自慢です。二つ目は、感謝の気持ちです。過去の私はあまり満足できない人間でした。何をしても足りなくていつも飢えたものです。しかし神さまと出会ってやっと落ち着きました。それに小さいことへも感謝するようになりました。朝目が覚めるときも、息をするときも、歩けるようになった時も、笑えるようになった時も感謝することができました。幸せは遠くにあるものではないことを新しい一日与えてくださる神に感謝しながら学んでいます。三番目の自慢は、喜びです。ある信者さんから尋ねられました。「金さんはいつも嬉しそうに見えるのです。何か特別な秘密がありますか」と。確かにわたしだけの秘密があります。それは「愛されているからです」家族からも、友達からも、修道会の会員からも、教会の信者さんからも愛されています。もちろん神様やイエス様やマリア様からも愛されています。それが私の喜びの秘密です。それでこのようにいっぱいいただいた愛を私も、私と会う人々に伝えようと思うとそれだけでものすごく嬉しいです。つまり私の自慢が増えるに従ってもっと祈りたい、もっと感謝したいと思い、もっと喜びを感じます。私の中にいる神の愛がこれからも人々と出会ってどんどん大きくなるかもしれません。それを想像するとものすごく嬉しいことですね。
皆さんはいかがですか?皆さんも幸せですか?皆さんのみの秘密を発見しましたか?それが神の愛ですか?その愛が皆さんの胸をワクワクしてくれますか?この時間にそのことに対して自分なりの答えを探せばいいと思います。それに今日私の話から少しでもヒントを見つけていただけると私には良い分かち合いになったと思います。
ご清聴ありがとうございます。
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