어느 가톨릭 수도자의 좌충우돌 세상사는 이야기
イエス様に従った「婦人たちの信仰」 본문

イエス様の御復活の最初の証人の栄光は婦人たちに与えられました。マタイ福音書をはじめ、四つの福音書ではそれら婦人たちの名前が書かれています。面白いことは婦人サロメの名前はマルコ福音書だけ、婦人ヨハナはルカ福音書だけ、また婦人ヤコブの母マリアはマルコとルカ福音書に名前が乗せられていますが、マグダラのマリアの名前だけは例外なく四福音書が証明しています。
教会の伝統ではマグダラのマリアはイエス様の女弟子、あるいはイエス様の弟子たちの中で「使徒の頭」と呼ばれるペトロと競争できる弟子として知られています。教皇ヨハネ・パウロ二世は彼女のことを初期キリスト教父たちの「使徒たちへの使徒」という表現を引用して称賛しました。
もちろん今日の福音ではほかの弟子たちも登場しています。ペトロとヨハネです。ですが、彼らはマグダラのマリアの「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」という報告を聞いた後、空いた墓を確認するために行っただけです。イエス様が「おはよう」とか、「マリア」とか声をかけながら慰めた彼女とは違います。他の場面ではペトロとヨハネもイエス様と出会いますがイエス様の復活の最初の証人ではないのです。
聖週間の内にイエス様の十字架の道を従いながら私たちはいろいろな人々と出会いました。イスカリオテのユダのような裏切り者にも出会ったし、イエス様を三回も否定したペトロの行為も見ました。またイエス様に従った大勢の群衆たちが彼の都合が悪くなると石を投げたり、唾を吐いたりするのも目撃しました。ですが、すべてのことを失われてもイエス様が復活すると信じていた婦人たちの信仰も確認することができました。心がイライラしても、先の道が見えなくても、いつ復活するか分からなくても希望をもって待つのが私たちの人間らしい信仰ではないかと思います。すべてのことがはっきりに分かった上で何かを信じることは信仰ではないのです。見えなくても、不十分でも、希望をもって信じることが信仰ではないかと思います。イエス様の復活を祝いながら私たちに人間らしい信仰を持つことができるように神様に切にお願いいたしましょう。
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