어느 가톨릭 수도자의 좌충우돌 세상사는 이야기
フランシスコ教皇様が一番好きな聖書の箇所は? 본문
先週、11月24日午後2時、浦上教会で「教皇フランシスコ来日一周年にあたり」の記念ミサが行われました。私も記念ミサに参加して、教皇様の来日時の映像やペトロ中村司教様が歌で作られた御説教も聞きました。去年の大雨の下、西坂での教皇様とのご挨拶やビックエㇴ野球場でのごミサなどをも思い起こすことができました。
長崎で教皇様と直接に会いましたので東京での「教皇様とイエズス会員との集い」には参加できませんでしたが、どんな対話が交わされたかは想像ができます。
2014.8.15、韓国に訪問したフランシスコ教皇様は、「私の兄弟たちに会いたい」と言われてイエズス会を訪問しました。その時教皇様は今日の第一朗読の「慰めよ、私の民を慰めよとあなたたちの神は言われる。」という個所を引用しながら「私が好きなイザヤ40章1節です。神の民は私たちに慰めてくださいと願っています。我々はイエス・キリストを探し出して、彼の愛を伝え、傷を負った人を慰めること。その傷をいやすのが私たちの役割です。」と皆に強く話しました。
また「慰め」について説明を加えて、「慰め、慰めとはいかなる方法でも神様の現存を表すことです。慰めはそれを受ける人にはすごくいいものです。ですが、慰めを与えることは決して容易ではありません。」と言われながら、今日の福音の洗礼者ヨハネのような役割を私たちにも頼みました。「主の道を備え、その道筋をまっすぐにせよ」と。すなわち私たち自身が「神の現存」をこの世に表わすこと、「神の慰め」を世に伝えることです。
最後に教皇様はこう言われました。「神様は待たれる方です。いつもゆるしてくださいます。いつも我慢してくださいます。いつも慰めてくださいます」。だからこそ私たちは許す信者になり、人々を慰めて与えるべきです。長年の信仰生活をふりかざす信者にではなく、一人ひとりが神の民を慰める司牧者となることです。それが人になられた神、その方を待ち望んでいる私たち信者の役割ではないかと思います。何故イエス様が世に来られたかを真剣に考えながら、私たちが頂いたいことがなにか、またそれを私も周りの人に伝えられる夢を抱きながら待降節を過ごしてみましょう。それができるように神様からのお恵みとご勇気をお願いいたしましょう。
'매일의 양식' 카테고리의 다른 글
私の息子??? (0) | 2021.01.01 |
---|---|
何を恐れているのか? (0) | 2021.01.01 |
「王であるキリスト」とは? (0) | 2021.01.01 |
少しのものに忠実な僕 (0) | 2020.11.14 |
「今うまくやっています!!」 (0) | 2020.10.31 |