어느 가톨릭 수도자의 좌충우돌 세상사는 이야기
捨てるではなくもっといただいたのである 본문
韓国管区入会式の日は、入会者たちの家族や親戚、友達が修練院まで見送りに来ます。私のときは会社の上司たちがsurpriseで入会式にいらして下さって感謝しました。
式の中で、入会者たちの家族の両親がみんなの前に立って挨拶をします。その挨拶をするとき、必ず家族のどなたかが泣き始めます。そうすると、そのお父さん・お母さんの涙が他の家族にも伝染して、結局、その入会式は涙の場になってしまいます。泣きやまない別れの涙のようなものです。
そこで、その状況を乗り越え、収拾するために、修練長は次の箇所を読みながら、一生懸命家族たちを慰めたり、励ましたりします。詩編126:5の、「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。」という個所です。
「今日は、一人、大事な子どもをイエズス会に奪われてしまったと恨んでいるかもしれませんが、かわりにこれから180人の新しい子どもができると思います。この子たちがお父さんやお母さんたちのために、家族として捧げるからご心配されないでください。ご両親の大事な子どもも修道生活の中で新しくできた兄弟たちと一生、ともにこの道を歩み始めるので、寂しくはないと思います。どうぞご安心ください」と。
最初は、見知らぬところで、なかなか心落ち着くこともできず、心配や不安感でいっぱいだった家族たちは、修練長の慰めのことばを聞いて、お御堂にいっぱいいるかっこいい神父さんたちや生き生きしている黒いスタンの修練者先輩や同期たちを見て、少し気が軽くなることも確かです。だんだん笑顔になっていく方もいます。
今日の福音で書いてあるように、「わたしたちは何もかも捨てて」イエスの道を従っていると言っていますが、この道を歩むと、そういうわけではないと気づく時もあります。確かに私たちは何かを捨てたこともありますが、逆にいただいたこともそれ以上いっぱいあります。イエス会の兄弟ももちろん、教会共同体の信者さんたちに、兄弟様や姉妹様と呼んでいます。自分の子供でもないのに、まるでお父さんのように、信者さんからパパと呼ばれています。さらに毎日イエス様のことを味合うなら、永遠の命のこともなんとなくわかる気がします。ワクワクする喜びや、とまらない歌声や止め切れない祈りや絶望できない希望などがそのしるしだとおもいます。私たちの何かの捨てたものより何倍、何十倍、何百倍のものを神様や世からいただいているのです。
絶望や悲しみなどは私たちの言葉ではありません。そのことを思いながら、私たちと会う人たちに、私たちがいただいた神様の恵みを生き生きして伝えていきましょう。
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