어느 가톨릭 수도자의 좌충우돌 세상사는 이야기
예수교 vs 교회교 본문
今日の第一朗読では、神と人間との契約について語っています。まず神は、イスラエルの人たちをファラオの手から解放し、エジプトから導き出してくださいました。その後、カナンの地での物語りやサムソンをはじめ裁く者たちの物語りなど神様との密接な関係を続けて来て、結局、新約のイエス様までの神の子としての正当性を明らかにしています。
それで今日の福音朗読をみると、私たちがイエスを受け入れるかどうかに従って神の子になるかなれないかを我々にはっきり聞いています。
「カナン信徒」という言葉が韓国の信者の中でよく知られています。自らキリスト教信者だと言いますが、実際は教会へは行かない人たちを示しています。その理由は「偽善的教会の姿にあきれてしまった」、「盲目的教理のみ強調する教会はいやだ」などで教会に行くことを拒否しています。最近は少し変わって「カナン信者を超えて無教会主義へ」も進んでいます。「カナン信者」は英語ではUnchurchedというのなら、「無教会主義」はChurchless Christianityということです。この傾向は、もともと教会の必要性を認めていないのです。新約聖書の「教会」というギリシャ語のエクレシアekklesiaというのは特定の場所や建物などではなく、「人たちの集い」という意味を示していると主張しています。マタイ18章,20節「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」。イエスの言葉によってかれらは教会なしの教会、つまり建物や聖職者なしの教会を立てる運動をしています。
OXFord英語辞書でも今日のキリスト教をChristianityとChurchianityと分けています。多くのキリスト教信者たちは「イエス」を信じる宗教ではなく、「教会」を信じる宗教へ変質されていっています。その意味での「教会なしのキリスト教」はキリスト教を拒否することではなく、「教会教」を拒否することだと言えます。
かれらの言葉に従うと、「教会教」の特徴は、1)強要される信仰への負担感、2)信仰共同体の中でのコミュニケーションの断絶、3)信仰と一般生活の不一致、4)個人的に表現される信仰であるようです。
私が皆さんに言いたいことは、これです、世の中は毎日、毎瞬間変わっています。我々が持っているよいもの、神の啓示とみ言葉、教会の伝統などの内容をその時代の分かりやすい表現で提示しないと人たちはどんどん神様から、あるいは教会から離れるかもしれません。私たちの教の使命はこういうことをちゃんとわかって答えを出さないと教会の未来を暗黒だと思います。確かに教会の中で若者たちはあまり見えないのでしょう。どうか、神様の恵みを求め、われわれの知恵を合わせ、いい答えを探しましょう。
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